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vol.2(2007年4月24日更新)


激動の1960年代、ニューヨークの黒人居住区に飛び込み、彼らのありのままをファインダー越しに見つめた
女性フォトグラファーの“ハーレムの熱い日々”を追う。

 


黒人差別撤廃を求める公民権運動の盛り上がり。ベトナム戦争の泥沼化から火が付いたベトナム反戦、大学紛争のうねり。アメリカの1960年代はまさに、ぐつぐつと煮立った大鍋の中に放り込まれたような、疾風怒濤の時代である。

その渦中に、うら若い日本女性が単身飛び込んだ。後のフォトジャーナリスト・吉田ルイ子さんである。しかも彼女が暮らしたのは、白人から『犯罪の巣窟』と恐れられたニューヨークの黒人居住区・ハーレムだった。

あるとき、彼女の母校である慶應大学の同窓会が、ニューヨークで開かれた。参加したのは、ほとんどが日本人のエリートビジネスマンである。パーティーがお開きになった後、彼らのうちの一人が、彼女を車で送ってくれることになった。

「お宅はどちらですか?」と聞かれた吉田さんは素直に、「ハーレムです」と答える。何げなく言ったつもりだったが、その日本人男性の顔色がさっと変わったのを彼女は見逃さなかった。ハンドルを持つ手が小刻みに震えている。

結局、彼女は途中で車を下り、地下鉄で自宅に戻った。「当時の日本人は白人以上にハーレムを怖がっていたわね(笑)」そんな彼らにとって、ハーレムに住む若い日本人女性は理解しがたい存在だっただろう。


50年以上前に夫婦別姓を選択
吉田ルイ子さんは1938年、北海道・室蘭市の生まれである。製鋼会社の重役を父に持つ、裕福な家庭の一人っ子だった彼女は、自宅で本を読んだり、絵を描くのが好きな、夢見がちな少女だった。

そんな彼女が通っていた小学校には、彫りの深い顔立ちをしたハンサムなアイヌの少年がいた。その少年に、淡い恋心を抱いていたという彼女はある日、父親がプレーしていたゴルフ場にその少年を誘った。当時、滅多に食べられなかったサンドウィッチをご馳走しようとしたのである。

少年は大きな犬とともにやってきた。ところが、ゴルフ場の守衛が行く手を遮った。「アイヌと犬はお断り」だという。「入れてよ!同級生なんだから」と、彼女が守衛と押し問答をしている間に、少年は目を伏せたまま去って行ってしまった。当時、アイヌの意味さえ知らなかった少女の心に、この出来事は大きな影を落とした。

後に彼女は、フォトジャーナリストとして、ベトナム、インド、パキスタン、キューバ、ニカラグア、リビア、南アフリカなど世界中を駆け巡り、戦争や貧困、差別に苦しむ人々を撮り続けるが、その原点となったのが、幼い日のこの体験だった。

1945年、終戦後まもなく、一家は北海道から東京の目黒に引っ越した。吉田さんは、中学、高校を、英語教育で定評のあるミッションスクールで学び、大学は慶應大学法学部へ。卒業後、海外への憧れから外交官になることを夢見たが、当時、女性に採用の門戸は開かれていなかった。

撮影した写真をチェックする。グリニッジヴィレッジのアパートにて
そこで吉田さんが次に目を付けたのは“テレビ”。「これからは、テレビの時代になるに違いない!」と、さっそくジャーナリストを志した彼女は、テレビ局への就職を考える。やはり、マスコミも女性の正社員登用はなかったが、NHK国際局に嘱託社員として採用になり、外国番組の翻訳や通訳の仕事をすることになる。

その後、朝日放送という大阪の新しいテレビ局で約2年半、アナウンサーとして働いたが、原稿を読むだけの仕事に満足できずにいた。

「番組そのものを作る仕事、企画制作に携わりたかった。ディレクターになる夢を叶えるには外へ出てジャーナリズムをもっと勉強したほうがいいと思ったんです」

そう決心した彼女が挑んだのは、超難関のフルブライト交換留学生試験である。これを見事突破した彼女は留学生として、1961年、シアトルへ渡った。




一番尊敬するユージン・スミス氏にニューヨークにて写真を見てもらう
渡米後、ニューヨークのコロンビア大学大学院放送ジャーナリズム科に入学した吉田さん。このニューヨークで彼女は、同じ大学院で学ぶアメリカ人青年と結婚する。新居はコロンビア大学のそばにある、ハーレムの公営アパートだった。

当時、ニューヨーク市当局は社会政策の一環として、コロンビア大学の学生カップルに対し、比較的安くて広い住居に住めるため、ハーレム居住を奨励していたのだ。

ハーレムについて何の知識もなく、偏見も先入観も持っていなかったという吉田さん。実際に住んでみると、そこは住民同士の温かい人情が通い合う日本の下町にも似た空間だったという。

彼女はすぐにハーレムに溶け込み、次第に子供から大人まで、隣人たちの写真を撮り始めるようになった。「もともとは絵を描くのが趣味。でも、彼らの黒く輝く肌、目の輝き、白い歯。彼らを通して感じる美しい光を表現できるのは、写真しかないって思ったの」

吉田さんはそれまで、とくに写真に関心があったわけでもなく、カメラの扱いに慣れていたわけでもなかった。しかし、隣に住む5歳の女の子の写真を撮ってあげたところ、その出来映えに本人も母親も大喜び。これ以後、彼女は『リトルピクチャーウーマン』と呼ばれ、誰彼問わず、写真をせがまれるようになった。

ちょうど、英語でディスカッションをしたり、論文を書くことに限界を感じていた吉田さん。次第に言葉を媒介としないフォトジャーナリズム、“見たままを撮る”魅力にはまり、大学での専攻をいままで在籍していた放送ジャーナリズムからフォトジャーナリズムへと転科したのだった。

当初は、ハーレムの人々の生き生きとした暮らしのなかの表情を切り撮っていたが、差別への苦悩、公民権運動の高まりとともに、黒人としての誇りに目覚めていく彼らの政治的な風景も、カメラに収めるようになっていった。




ニューヨークから帰国した頃。新宿2丁目のゴールデン街を颯爽と歩く
コロンビア大学大学院を卒業後、彼女は広告代理店に入社。貧困撲滅を目指した公共広告のポスターに採用された彼女の写真が、1968年度の公共広告賞を受賞する。

それは、何かを訴えるような眼差しが印象的な、黒人少年の大胆なクローズアップだった。何百万語を駆使するより、遥かに雄弁な写真の力である。この写真の力を信じて、71年に日本に帰国した後も、彼女は世界中のさまざまな人々を撮り続ける。

75年には戦争終結間近のベトナムに出かけた。戦場には行かず、仏教寺院の孤児院でボランティアをしながら、戦争孤児の写真を撮影する。87年に訪れたアパルトヘイト下の南アフリカでは、吉田さんにとって忘れられない子供に出会った。

小さな体に弟をおぶった幼い黒人少女。そのきらきら光る眼差しに、夢中でシャッターを切った。過酷な体制下でありながら、未来の希望を暗示するようなその笑顔は、89年に出版した、『南ア・アパルトヘイト共和国』の表紙を飾った。

吉田さんが写真を撮るときのモットーは『be natural』。一切の演出を排したあるがままの一瞬を見逃さない。だから彼女の写真は皆、被写体が生き生きと躍動し、何よりその表情が自然で素晴らしい。しかし、そんな吉田さんも写真を辞めようと思ったことは何度もあるのだそう。

「これを撮りたい」というものが見つからないと、スランプに陥ってしまったり、ときには彼女の意図と出版社や編集者の考えが噛み合わず、何年もかけて取材した企画が実を結ばなかったこともある。それでも彼女は写真を撮り続ける。なぜか。

「写真には自分がそのときに感じた想いが映ると思うの。被写体を通して自分自身が出てしまう。だから嘘はつけない。自らの生きてきた道を映し出す鏡、それが写真なのよ」吉田さんにとって、写真は生きることそのもの。彼女は今日もどこかで、心惹かれる出会いを求めてシャッターを切る。



1938年
    北海道・室蘭に生まれる
1959年
    慶應義塾大学を卒業し、NHK国際局を経て朝日放送のアナウンサーに
1961年
    フルブライト留学生として渡米。オハイオ大学大学院を経て、コロンビア大学大学院でジャーナリズムを学ぶ
1968年
    広告代理店のフォトグラファーに。公共広告賞を受賞
1972年
    帰国後、写真展『ブラック・イズ・ビューティフル』を開催。『ハーレムの熱い日々』を出版
1975年
    ベトナムの孤児院で戦争孤児を取材
1980年
    写真展『吉田ルイ子のニューヨーク黙示録』を開催
1982年
    84年までニカラグア、キューバ、ジャマイカなどカリブ海の国々を取材
1987年
    アパルトヘイトの南アフリカを取材
1989年
    『南ア・アパルトヘイト共和国』を出版。JCJ(日本ジャーナリスト会議)特別賞受賞
2001年
    写真集『Beautiful age華麗な女たち』を出版。同写真展を02年まで全国6カ所で開催
2003年
    北海道の東川町で開催された、第19回国際写真フェスティバルで、『華麗な女たち』が東川特別賞を受賞